ベテラン頼みの経営が抱える「見えないリスク」

歯科医院において「○○さんがいないと業務が回らない」という状況は、個人のスキルの高さを示す一方で、経営的には極めて危うい状態を意味します。特定のスタッフに依存する「属人化」は、突然の欠勤や退職が起きた際、医院の機能を瞬時にストップさせかねません。本コラムでは、業務マニュアルを見直し、スタッフ全員が一定の品質で動ける「仕組み」を構築するための実践的ノウハウを解説します。
なぜ歯科医院の現場では「属人化」が加速しやすいのか

専門性が高いゆえに生じる「職人文化」の弊害
歯科医療の現場は、高度な専門技術と細やかな接遇、そして複雑な事務作業が密接に絡み合っています。こうした環境では、長年「教育=現場での踏襲」というスタイルが主流となり、言語化されない「暗黙知」が蓄積されがちです。ベテランスタッフが持つ「勘」や「コツ」が共有されないまま、個人の経験則としてブラックボックス化していくことが、属人化を助長する最大の要因となっています。
多忙が生む「自分でやったほうが早い」という心理的罠
日々多くの患者様を迎え、時間との戦いである歯科医院の現場では、丁寧に教育を行う時間を確保することが困難です。その結果、教える側は「マニュアルを作るより自分でやったほうが確実で早い」と判断し、教わる側は「見て覚えるしかない」という状況に追い込まれます。この短期的な効率の優先が、中長期的な組織の脆さを生み、結果として特定の誰かしか正解を知らない業務を量産してしまうのです。
医院の成長を阻む、属人化しやすい業務の共通点

レセプト・事務業務における「経験則」の危うさ
最も属人化が進みやすいのが、レセプト請求や窓口事務です。複雑な算定ルールや返戻への対応、あるいは各自治体固有の公費負担制度など、担当者の「頭の中」にしか手順が存在しないケースが少なくありません。担当者が不在の際に会計トラブルが発生すれば、患者様からの信頼を失うだけでなく、経営的な損失に直結するリスクを孕んでいます。
診療補助とドクターのこだわりが生む「見えない壁」
ドクターごとの器材配置の好みや、術式によるアシスタントのタイミングといった「阿吽の呼吸」も、言語化を拒む領域になりがちです。これらが標準化されていないと、新人が入るたびに同じミスを繰り返し、現場に不必要な緊張感が漂うことになります。「あの人がつく時だけスムーズだ」という状況は、他のスタッフの自信を奪い、組織全体の底上げを阻害する要因となります。
「現場で機能する」マニュアルへの刷新戦略
業務の棚卸しと優先順位の決定
属人化を打破する第一歩は、現在行われているすべての業務を一度テーブルに載せることです。診療・事務・清掃・在庫管理など、あらゆるタスクを可視化し、その中で「特定の人しかやっていないこと」や「ミスの影響が大きいこと」を明確にします。まずは重要度の高い業務から標準化を進めることで、組織の脆弱性を効率的に解消していくことが可能になります。
未経験者を基準とした「具体的数値」による言語化
マニュアルを実効性のあるものにするためには、読み手の対象を「今日入ったばかりの新人」に設定しなければなりません。「適量を混ぜる」「しっかり清掃する」といった主観に頼る表現を排除し、「◯ml計量する」「この角を◯回拭く」といった具体的な数値や動作へ落とし込みます。誰が読んでも同じ結果を導き出せる「再現性」こそが、マニュアルの質を決定づけます。
一度作って終わりにしない「定期更新」の仕組みづくり
マニュアルが形骸化する最大の原因は、実務の変化に内容が追いつかなくなることにあります。診療報酬の改定やシステムの入れ替えに合わせて即座に内容をアップデートし、少なくとも半年に一度は全スタッフで見直す場を設けることが重要です。更新担当者を決め、常に「最新版こそが正解である」という信頼感を院内に醸成することが、運用の鍵となります。
運用の精度を劇的に高める実務的な工夫
視覚に訴え、理解速度を上げる「動画マニュアル」の導入
文章だけでは伝えにくい機材のメンテナンスや滅菌の手順には、スマートフォンの動画を活用するのが最適です。数十秒の短い動画を院内のクラウドやタブレットで共有することで、ベテランの指先の動きや細かなニュアンスを視覚的に伝えることができます。これにより教育コストが大幅に削減され、新人も自宅や空き時間に予習・復習を行うことが可能になります。
作業動線の中に配置する「チェックリスト」の活用

マニュアルを棚に眠らせず、必要な場所に掲示することも重要です。例えば、ユニットの準備や閉院時の戸締まりなどは、チェックリスト化してその場に貼り出しておきます。記憶に頼らず、その場で指差し確認ができる仕組みを導入することで、うっかりミスを物理的にゼロに近づけることができ、スタッフの精神的な負担軽減にもつながります。
失敗を組織の財産に変える「エラーナレッジ」の蓄積
単なる手順書にとどまらず、過去に起きたトラブルや「ヒヤリハット」の事例をマニュアルに統合していきます。「なぜその手順が必要なのか」という理由とともに、失敗しやすいポイントを明記することで、マニュアルはより実践的な教育ツールへと進化します。ミスを犯人探しで終わらせず、仕組みの改善へと繋げる姿勢が、組織全体の危機管理能力を高めていくのです。
「教え合うこと」を価値とする組織文化の醸成
評価基準の転換:仕組み化に貢献したスタッフを称賛する
属人化の解消を成功させるには、スタッフの意識改革が不可欠です。「自分しかできない仕事を持っている人」を評価するのではなく、「自分の仕事を誰でもできるように可視化した人」を高く評価する人事制度を導入します。知識を独占するのではなく、共有することが自身の価値を高め、医院全体の利益に繋がるという認識を浸透させることが重要です。
スタッフのQOLを向上させる「安心感」の提供
業務の標準化が進むことは、スタッフにとっても大きなメリットがあります。誰でも業務を代行できる体制が整えば、急な体調不良時や有給休暇の取得に対する心理的なハードルが下がり、ワークライフバランスの向上に寄与します。「仕組み化はスタッフの自由を守るためのもの」というメッセージを伝え続けることで、前向きな協力体制を築くことができるようになります。
マニュアル刷新は、強い医院を作るための投資である
属人化を解消するためのマニュアル見直しは、単なるドキュメント整備ではありません。それは、スタッフ一人ひとりが安心して働ける環境を整え、患者様に対して常に一貫した高品質なサービスを提供するための、極めて重要な経営投資です。特定の「個人」に依存する組織から、洗練された「仕組み」で動く組織へ。この転換こそが、医院の持続的な成長と、院長先生が本来集中すべき診療や経営に専念できる環境を実現します。
この記事の解説者

MOCAL株式会社
富平 高行 Takayuki Tomihira
大学を卒業後、テレビ業界でディレクターとして情報番組の制作に10年間携わる。
その後、大手介護関連企業に転職。運営管理から人事マネジメント業務と介護業界での施設長を経て、医療業界にて訪問診療専業のクリニックの事務長となる。
基本的な一連の診療補助業務に携わる一方で労務管理・行政対応・集患活動と幅広く運営業務に従事する。
介護・医療で培った経験を歯科医療業界で役立てたくMOCAL株式会社に入社。

